サミュエル・R・ディレニィSF小説「バベル17」と言語の世界 - ボンジュール経済トリビア blog.livedoor.jp/senri1274/arch…
posted at 13:03:02
合理主義的・唯物的・科學的判斷を目指す研究者諸氏は、道徳的・精神的な面で幼稚である事が極めて多く、緻密に現實が分析されてゐるやうに見える研究であれば、結論の價値判斷が非常に稚拙なものであつても、少しも疑はず、氣樂に追隨してしまふ。
posted at 12:55:00
海外の思想を輸入するのに忙しい日本の思想研究家諸氏には、この邊の反省が案外見られない。
posted at 12:49:16
國家主義に基く個人の行爲にも、政治的な意圖に基く政治的な行爲は、大量に含まれる。
posted at 12:47:21
個人主義に基く個人の行爲にも、政治的な意圖に基く政治的な行爲は、少からず含まれる。
posted at 12:46:59
もちろん、右翼も左翼と同じやうに、政治主義の勘違ひに陷る。
posted at 12:45:41
左翼の勘違ひの多くはこの邊に由來する。
posted at 12:45:12
が、國家・共同體の規律の維持を妨げる個人の行爲ならば、全て一律に「道徳的な善行」と看做せるか、と言へば、そんな事はない。
posted at 12:44:44
個人の道徳としては「善の行爲」であつても、國家・共同體の規律の維持のためには「不正の行爲である」と認定されるものがある。
posted at 12:43:04
ギリシャの御芝居、アンティゴネーに、共同體の規律と、個人の道徳との對立の問題を、見て取る事が出來る。
posted at 12:40:56
せいぜい、政治に於いて、個人の道徳を優先した發想は、邪魔であり、排除される、といつた程度の關係である。
posted at 12:40:10
個人の生き方にかかはる善惡と云ふ概念は、共同體の存續・維持を目的とする政治に於いて、何ら意味を持たない。
posted at 12:39:37
共同體と個人とが對立するのなら、政治と道徳とも對立する。
posted at 12:38:52
共同體の存續・維持を目的とした營爲が政治であり、個人の生き方にかかはるのが道徳である。
posted at 12:38:35
が、共同體と個人とは決定的に對立する。
posted at 12:37:35
さつきのブログの左翼氏が、ナショナリズムとインディビデュアリズムとを對立させてゐたが、イズムとイズムの對立なんてのは、政治的な辨證法でアウフヘーベンでも何でもする事が出來る。
posted at 12:37:14
政治の領域と道徳の領域は重ならない。政治の領域で、道徳的な善とか惡とか、さう云ふ事は全く意味を持たない。
posted at 12:35:51
ところが、政治の領域で、侵掠は惡ではないし、殺人も惡ではない。
posted at 12:34:54
さつきのナショナリズム絡みで東京新聞に文句言つてゐるブログの文章でも「侵略が悪なのは自明」とか言つてゐたし、殺人も「悪なのは自明」だとみんな思つてゐる。
posted at 12:34:35
RT @robert_KIMATA: 実際の殺人件数を数えると、自衛隊と左翼じゃ左翼の方が上だと思うのだが twitter.com/teracy/status/…
posted at 12:33:21
RT @teracy: これが薄汚い共産党員の本音です / “共産市議、陸自工科学校を「殺人練習する学校」と発言 埼玉・上尾市広報誌への生徒募集掲載中止要請 25日に謝罪へ(1/2ページ) - 産経ニュース” htn.to/vcZbAZ
posted at 12:33:19
RT @yukieum: 結局最初に一言で書いたのが心情としては適當なんだよな。 「金錢と宗敎といふ問題から、さらに傳統宗敎と新興宗教 (大抵の場合これは破壞的カルトである) を接續して、宗敎——特に傳統宗敎——に對する遺恨をぶつけてゐるやうに見えて不愉快」
posted at 12:31:52
RT @osito_kuma: こんなの綺麗事の建前で、本音は「縄張りを荒らすな」だろ。伝統宗教が新興宗教を非難する時も「新しいから」「我々と異なるから」で、「新興宗教は信者を騙して金を巻き上げてる」と非難すると何故か伝統宗教の信者が嫌な顔をする。脛に傷? www.itmedia.co.jp/news/articles/…
posted at 12:31:33
サルトルの『嘔吐』で、藝術に救濟・慰めを見出してゐる事にも注意。
posted at 12:27:54
近代の國家に「公定ナショナリズム」とやらを見出し、その「人工的」な性質を左翼は非難するらしいが、福田恆存の讀者から見れば、それこそ人間性を無視した、非人道的とすら言つてもいいやうな所業である。
posted at 12:26:05
藝術が人間の創造の行爲であるならば、それを「人工的」と言つて非難する理由にはならない。
posted at 12:24:04
日本の明治政府が明治時代にさうした季節感に沿つた社會の儀式の「制度」を整備したとすれば、明治政府の運營者は人間の精神をよく理解してゐたのである。
posted at 12:23:14
キリスト教のクリスマス行事も、ヨーロッパ地域に古くからあつた冬至の御祭の傳統を引繼いだもので、そこには、今風に言ふなら、「善」の機能を見出して良い。
posted at 12:21:54
ギリシャの古い時代の出來事として語られてゐる福田恆存の藝術論だが、D.H.ロレンスの發想が強く反映されてゐる事は論を俟たない。
posted at 12:20:12
明かにこの「太陽の再生=人間の精神の再生」の儀式は、「つくられたもの」だが、それを福田恆存は積極的に肯定してゐる。
posted at 12:19:11
さうする事によつて、人々は、自らの活力も、再生させたのである。
posted at 12:18:14
それに人々は一齋に參加したのだ。
posted at 12:17:49
悲劇とサテュロス劇とが連續して演じられる事によつて、太陽の死と再生が象徴的に表現される。
posted at 12:17:35
コンテストで選出され・演じられたギリシャの悲劇には、傳はつてゐないが、どうやら後ろにサテュロス劇と云ふものがくつついてゐたらしい、それは觀客も參加したお祭り騷ぎのやうなものであつたやうだ、と福田恆存は書いてゐる。
posted at 12:17:01
この儀式としての演劇に於いて、人々は、現代のやうに觀客として傍觀してゐただけではなく、實際の儀式に自らも參加した。
posted at 12:15:26
斯うした太陽の死と再生を模倣し、儀式化したものが、初期の演劇であつた、と福田恆存は論じてゐる。
posted at 12:13:36
秋から冬にかけて力を失つた太陽は、冬至に至つて死を迎へる。冬至以後、再び太陽が活力を取戻し、再生を遂げる。人々は、春の祭りで喜びを表す。
posted at 12:12:43
福田恆存の藝術論によれば、ただだらだらと流れる時間の中で、人間は季節によるリズムを意識し、それによつて生活を律し、生きて行く活力を得てゐた。
posted at 12:10:44
「まず人間に権利を与えよ、人間の精神なんてもんを考えるのはその後だ」――では、何時になつたら考へて良いのだらうか。
posted at 12:08:20
なぜなら、左翼は、人間の「權利」と云ふ觀念が大事なだけなのであり、人間の精神なんてもんには何の價値もないと極附けてゐるからだ。
posted at 12:07:35
が、「公定ナショナリズム」とやらの「神話」を信ずる左翼諸氏には、さうした現實主義は人氣がないのである。
posted at 12:06:41
現實主義の立場から言へば、「ナショナリズム」の「善の機能」とやらを活かす事は、人間の精神には非常に有益だらう、つて事になる。
posted at 12:06:05
>……、ナショナリズム自体に価値があるのではなく、ある局面では「善」の機能を発揮しうると見るべきだろう。 article9.jp/wordpress/?p=949
posted at 12:05:03
>社会主義や共産主義が理念であるのに対して、資本主義は現実である。同じような意味で、インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実である。 article9.jp/wordpress/?p=949
posted at 12:04:22
福田恆存は、戰前の方が季節感を味はひ得る點、戰前の「祝日」の方が遙かに良かつた、と言つてゐる。
posted at 12:03:49