宗教に欺されて幸福を感じてゐる人が不幸になるにしても、その人に本當の事を教へるのは正しいのである――その人は本當の意味で幸福になるのである――と信じて「あなたは欺されてゐるんですよ」と教へるのならば、それはまた別の宗教に基く行爲である、と解釋されねばならない。
posted at 16:01:04
欺されて幸福を感じてゐるに過ぎない人でも、欺されてゐたんだ、と氣附くまでは幸福なのである。さう云ふ人に「あなたは欺されてゐるんですよ」と教へるのは、その人を幸福にではなく不幸にしてゐると言ふ事が出來る。
posted at 15:58:41
「詐欺的な新興宗教の類に騙されて幸福感を持たされてゐる」に過ぎないとしても、その人の幸福感を否定されて良いとは限らない。
posted at 15:57:36
もし人間が「本當の幸福」なんてものを得られるものでないとしたら、宗教から得られる幸福感を否定される必要はないのでないか。
posted at 15:56:37
宗教による幸福感は、果して「本當の幸福」なのか。「否」と宗教批判をする人なら言ふだらうけれども――そもそも「本當の幸福」なんてものが果して「ある」のか。
posted at 15:55:53
幸福であるとか不幸であるとかいつた事も、非合理的なものである。
posted at 15:54:31
「なんかぴんときた」とか「すげえと思つた」とか、そんなんでも宗教體驗である。
posted at 15:53:51
合理的な説得を受けても信じない人は信じないし、非合理的な事を言はれても信ずる人は信ずる。が、合理的な説得を受けて信ずる人も、非合理的な宗教體驗を經て信じてゐるのである。
posted at 15:53:18
宗教は非合理的なものなので、頭の良い理系の子がオウム真理教なんかにはまる事もあり得る。
posted at 15:52:26
(利得の爲に「信じてゐる振りをしてゐる」人は話が別である。
posted at 15:46:24
宗教を信じてゐる人は、 周りの人が宗教を信じてゐるので何時の間にか・自然に信ずるやうになつた か、 強烈な宗教體驗を經て信ずるやうになつた かのどちらかである。
posted at 15:45:20
ところで、實際の信仰者のありやうはどんなものか。
posted at 15:43:44
「人は心から信仰してゐる事が重要である」と考へる信仰者の發想から言へば、宗教を押附けて、宗教を信じてゐるかのやうに振舞はせる=人を自分の支配下に置いて自分の支配欲を充たす、と云ふ事は何の意味もない。
posted at 15:43:00
「宗教による押附け」をしてゐる人は、相手が「信仰してゐるかのやうに振舞つてゐる」事で滿足する――と云ふ世間一般のアンチ宗教の人の物の見方がある。支配欲の發露として「宗教による押附け」が「ある」、と云ふ見方である。
posted at 15:41:25
信仰してゐるかのやうな態度を示してゐるからと言つて、その人が心から信仰してゐるとは限らない。
posted at 15:39:19
宗教の信仰を考へる場合、表面的な信仰・見た目の信仰と、心の中での信仰とを、區別して考へなければ行けない。
posted at 15:38:34
共産主義による革命も常に個人崇拜につながり、擬似宗教を發生させる。
posted at 15:37:28
(フランス革命を見よ。
posted at 15:36:17
宗教を否定する思想は結局、擬似宗教の姿を呈する。
posted at 15:36:01
宗教を否定する唯物論もまた宗教――或は、紛ひ物の宗教である。
posted at 15:35:31
宗教批判は無宗教であると、俺は信じない。そもそも、無宗教は宗教でない、と俺は信じない。
posted at 15:34:59
宗教が幸福を押賣りし、宗教批判をしてゐる人が不幸を押賣りしてゐる――とするならば、宗教批判をしてゐる人も、結局は、自分の信ずる宗教を押賣りしてゐるだけでないか。
posted at 15:34:24
「いや、その人に幸福を押附けたのは、その宗教である」と宗教批判をする人は言ふだらう。
posted at 15:33:41
その人が「私は幸福である」と思つてゐるのに、外部の人間が「いや、あなたは不幸なのである」と言つても、それは不幸の押賣りでないのか。
posted at 15:32:44
宗教を信じさせられて、それでその人が「不幸になつた」――さう外部の人が判定した時、果してその人當人は「自分は不幸である」と思つてゐるか。
posted at 15:32:14
人の幸不幸を、あなたはなぜ判定できるのか。
posted at 15:31:43
なぜ宗教を押附けられると不幸になる、つて解るのか。
posted at 15:31:30
押井さんの宗教批判なんかもさうだが、宗教を押附けられると不幸になる、つて指摘が常に出てくる。
posted at 15:31:01
宗教を信ずる、つて事に、例へば押井さんは批判的なわけだが、なぜ宗教を批判する人がゐるかと言ふと、「宗教を強制するから」つて理由が常に擧げられる。
posted at 15:30:22
RT @hyuki: 結城はキリスト教を信じているけれど、他者に強制はしたくない(信仰は強制ではない)。でも自分の「証し」はする。私はイエスさまを信じてからずっと(たいへんなこともたくさんあったけれど)幸せであると。細かいブレはたくさんあったけれど、総じて見れば信じてよかったと深く実感している。
posted at 15:29:40
政治問題も經済問題も變らないんで、どつちの場合でも論者はせいぜい相對的な正義をしか主張できない。だからそんな力を入れてもしかたがないよ、つて言つても、「批判は自由ですキリッ」みたいな反論が飛んできて、こちらの批判が封殺されてしまふ。
posted at 15:28:11
政治における正義はみんなが思つてゐるほど價値がないんでね、それを俺は指摘してゐるわけなんだけれども、本當みんな聞く耳を持たないんだよね。
posted at 15:24:43
RT @piro_or: そのような妄執を取り除くのにはおそらく、マインドコントロールを解くというのと同程度の労力が必要なのでしょう。自分で自分をマインドコントロールしてるようなものだし。だから、噛みつかれた運の悪い人は、本気で挑むより、適当にあしらって回避する方がいいと思う。
posted at 15:23:28
RT @piro_or: しかし正義を執行しているつもりの純粋まっすぐ君(過去の自分)には、「そんな事誰も問題にしてない。拘ってるのはお前だけだ」と言っても、「皆はその問題の重要性に気付いてないだけ。俺は重要性に気付いた。だからその点を明らかにするのが俺の使命なのだ!」となってて聞く耳持たんのであります。
posted at 15:23:26
RT @piro_or: togetter.com/li/665313 こういう下らん事を執拗に聞くタイプだった過去の自分を省みると、心の底から「それを明らかにせねばらぬ」と信じ込んでいたと思うので、いかにしてそれは問題の本質ではないと悟らせるか、または、いかにして話をそらすか、なのだなあと思う。
posted at 15:23:25
@osito_kuma @kahusi 関西コミティアに行けば買へるつてわけだ
posted at 15:21:32
RT @akarinoya: ああ授業中に原稿書けばいいんだ
posted at 15:20:15
RT @hamuko_5364: 表現の自由には批判する自由も含まれる。当然擁護する自由も。だから我らを批判する論拠が「表現の自由」な時点で完全な自家撞着。逆に我らの口から廃刊せよ中止せよん求めるのもまた危険な言説ですね。俺ごときに指摘されるまでもない事でせうけれど [mb]
posted at 15:19:29
デデーン語
posted at 15:19:11
@osito_kuma 間違つた態度を批判したら「批判するな」つて言はれたものでしてね。
posted at 15:17:00
@Skydaisy9 糖分つて攝つた方がいいんですかねえ
posted at 15:15:10
わんぎり
posted at 02:01:28
@staryoshi 素人志向
posted at 01:56:55
俺は富塚真弓の讀者なので江差線よりも松前線の方に思ひ入れがある
posted at 01:51:42